ほうふは山口県央部に位置します。
県下最大の広い平野を有しており、瀬戸内海、市内中心を流れる一級河川『佐波川』(さばがわ)、中国山地に連なる山々に囲まれた自然の宝庫です。
瀬戸内海と周防灘の境にあり内海を有する防府は、古くから海上交通の要衝として栄えました。穏やかな海の風景はどの時代の人を魅了してきました。
現代のほうふを代表する海と言えば富海(とのみ)海水浴場です。
ゆるい弧を描いた遠浅の美しい白砂の海岸は、かつては別荘地としても栄え、海水浴場としてだけでなく、晴れた日には遠く姫島や国東(くにさき)半島を望むことができ、景色を楽しむこともできます。
また、防府市三田尻港(みたじりこう)から船で約30分の所にある野島は、瀬戸内海国立公園に含まれる美しい海に囲まれ、手付かずの自然が残っており、良質な漁場としても有名で太公望たちが季節を問わずに訪れます。
市内を縦断する佐波川は流域面積446㎢、流路延長56.5kmを誇る山口県を代表する川です。
土手には遊歩道や河川敷公園が整備されており、散歩やレジャー等に利用する人も多く、市民の日常生活に溶け込んでいます。
ほうふを象徴する山といえば大平山(おおひらやま)です。
標高631mの山頂では眼下に広がる防府市街の絶景に加えて、四季折々の草花を楽しむことができます。
とくに5月には10万株のつつじが山頂をピンクに染めます。
ゴツゴツとした花崗岩がむき出しになった右田ヶ岳は県内外の登山愛好家に人気の山です。
ほうふはあちらこちらで一年中自然の美しさを感じることができ、自然に抱かれたふるさとだといえます。
防府地域が初めて史料に登場したのは、日本書記に記されている『周防娑麼(さば)の浦』(諸説あり)です。ここは遣新羅船が漂流するなど海上航行の重要地点であり、山陽道などの陸上交通と瀬戸内海の海上交通が交差し、近畿・山陰・九州を結ぶ交通の要衝でした。
飛鳥時代から奈良時代には、律令国家体制のもと、地方は国郡(評)里(郷)の制が敷かれ、現山口県域には周防・長門両国が設置されました。この時、現在の防府市国衙(こくが)周辺に周防国の国府が置かれ、ほうふは周防国の中心として永く栄えました。
奈良時代に聖武天皇より国分寺建立の命が出され、ほうふにも周防国分寺が建立されました。その後、戦乱や災害等のために衰退・消滅した国分寺も多い中、周防国分寺は今も当時と同じ位置とほぼ同じ規模を保っており全国でも非常に稀有で貴重な存在となっています。金堂には薬師如来坐像や日光・月光菩薩立像など数多くの重要文化財が安置されています。
防府天満宮の社伝によると、西暦901年(昌泰4年 平安時代)菅原道真公が「無実の罪」によりに左遷され、太宰府 に赴任する途中、勝間浦に立ち寄りました。西暦903年(延喜3年 平安時代)太宰府の地で薨去され、翌年に創建されたと伝わっています。
それからおよそ100年を経た西暦1004年(寛弘元年 平安時代)、時の一条天皇より勅使が、 防府天満宮(勝間浦)に遣わされ、勅使降祭(お御霊を慰める祭典)が斎行され、初めて天皇から「無実の罪」が奏上されました。
防府天満宮 御神幸祭はこの勅使降祭を起源とし、道真公に「無実の知らせ」を伝えるお祭りとして連綿と受け継がれており、崇敬の源となる最も重要な神事です。
亡くなられた翌年に道真公の慰霊をするために松ヶ崎に社が建立されました。これが防府天満宮のはじまりといわれています。
鎌倉時代に後白河法皇は焼失した東大寺再建を俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人に命じました。重源上人は再建のために周防国に下向し、その際に周防国の活動拠点として建てられたのが阿弥陀寺(周防別所)です。阿弥陀寺には、重源上人ゆかりの国宝や重要文化財など数多くの文化財を所蔵しています。苦労して東大寺再建を成就した重源上人は神の助けに感謝し、玉祖神社(たまのおやじんじゃ)と防府天満宮を造り替えました。
関ヶ原の合戦の後、領地を8か国から周防・長門の2か国に減らされた毛利氏は、新たに萩に城を造りました。その後、参勤交代のために三田尻と萩(はぎ)を結ぶ萩往還を整備し、毛利水軍の本拠地である御舟倉(おふなぐら)も三田尻に移し、ほうふは萩藩の重要な対外拠点となりました。
幕末には勤王の志士たちがこの往還道を通って宮市や三田尻を訪れたほか、富海から飛船に乗って上京したり、倒幕のため向島の小田(こだ)港沖から出帆したりしました。
現在も市内には、歴史を刻む地名が多く残されており、伝統行事や文化財等も大切に守られています。
ほうふの名前は、飛鳥時代から奈良時代に置かれた「周防国府」に由来します。古代から中世の条里制とその後の継続的な土地利用によって形成された方格に区切られた地割りが、防府平野の北側の広い範囲に残っています。
防府天満宮の門前市、さらに近世山陽道の宿場町として宮市(みやいち)は発展しました。この通りには今でも高い建物は少なく、史跡や江戸時代から現代にわたって受け継がれてきた宿場町の文化を感じられる建物やまち割りが残されており、レトロな雰囲気を醸し出しています。
ほうふは江戸時代から干拓で土地を拡げ、そこで行われた製塩業は『東の赤穂(あこう)、西の三田尻(みたじり)』と言われるほど有名になりました。その跡地には、昭和40年代から大規模な工場が進出し、西浦(にしのうら)から三田尻港に至る一大工業地帯を形成しています。
市の中心にあり桜の名所である桑山(くわのやま)に登れば、防府市内が一望でき、ふるさとほうふの全景が見渡せます。
山と海に囲まれ豊かな自然の中にあるほうふは、古い家と新しい家が新旧渾然一体となってまとまりのある景観を保っています。
山口県の方言である『幸せます』は、幸いです。うれしく思います。助かります。ありがたいです。便利です。の意味を持って使用されています。
防府市では『幸せます』という言葉をヒントに『幸せます』に『幸せが増す』という意味を付け加え、地域のブランドとして親しまれています。
ぜひ、『幸せますのまちほうふ』で、皆さんの幸せが増しますように。