ほうふの歴史

千三百年の歴史を感じるまち『ほうふ』

日本の歴史に初めて防府地域が登場したのは、日本書記に記されている『周防娑麼(さば)の浦』(諸説あり)です。ここは九州への渡海のための要地で、遣新羅使等も利用しており、海上航行の重要な地点でした。

飛鳥時代、律令国家体制のもと、地方は国郡(標)里の制が敷かれ、現山口県域には周防・長門両国が設置されました。この時、現在の防府市国衙(こくが)に周防国の国府が置かれ、ほうふは周防国の中心として永く栄えました。

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周防国府跡


奈良時代に聖武天皇より国分寺建立の命が出され、ほうふにも周防国分寺が建立されました。その後、戦乱や災害等のために衰退・消滅した国分寺も多い中、周防国分寺は今も当時と同じ位置とほぼ同じ規模を保っており全国でも貴重な存在となっています。金堂には薬師如来像や日光・月光菩薩像等数多くの重要文化財が安置されています。

hofunorekisi_hs2.jpg#asset:1366周防国分寺


防府天満宮の社伝によると平安時代に菅原道真(すがわらのみちざね)公が左遷され、大宰府に赴任する途中、勝間の浦に立ち寄りました。今も続く防府天満宮の『御神幸祭』(ごじんこうさい)は、その時の送迎の古式を伝えたものといわれています。その後、道真公は亡くなりましたが、慰霊をするために松ヶ崎に社が建立されました。これが防府天満宮のはじまりといわれています。

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防府天満宮


平安時代後期に後白河法皇は焼失した東大寺再建を俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人に命じました。苦労して東大寺再建を成就した重源上人は神の助けに感謝し、玉祖神社(たまのおやじんじゃ)と防府天満宮を造り替え、東大寺別院として阿弥陀寺を創建しました。阿弥陀寺には国宝や重要文化財とともに重源上人の遺品も多く所蔵しています。

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東大寺別院阿弥陀寺


関ヶ原の合戦の後、領地を8か国から周防・長門の2か国に減らされた毛利氏は、新たに萩に城を造りました。その後、参勤交代のためにほうふと萩(はぎ)を結ぶ萩往還を整備し、毛利水軍の本拠地である御舟倉(おふなぐら)も三田尻に移し、ほうふは萩藩の重要な対外拠点となりました。
幕末には勤皇の志士たちがこの往還道を通って富海から飛び船に乗って上京したり、倒幕のため向島の小田港沖から出帆したりしました。

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三田尻御舟倉跡


現在も市内には、歴史を刻む地名が多く残されており、伝統行事や文化財等も大切に守られています。