ほうふの歴史

千三百年の歴史を感じるまち『ほうふ』

日本の歴史に初めて防府地域が登場したのは、日本書記に記されている『周防娑麼(さば)の浦』(諸説あり)です。ここは九州への渡海のための要地で、遣新羅使等も利用しており、海上航行の重要な地点でした。

飛鳥時代、律令国家体制のもと、地方は国郡(標)里の制が敷かれ、現山口県域には周防・長門両国が設置されました。この時、現在の防府市国衙(こくが)に周防国の国府が置かれ、ほうふは周防国の中心として永く栄えました。

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周防国府跡


奈良時代に聖武天皇より国分寺建立の命が出され、ほうふにも周防国分寺が建立されました。その後、戦乱や災害等のために衰退・消滅した国分寺も多い中、周防国分寺は今も当時と同じ位置とほぼ同じ規模を保っており全国でも貴重な存在となっています。金堂には薬師如来像や日光・月光菩薩像等数多くの重要文化財が安置されています。

hofunorekisi_hs2.jpg#asset:1366周防国分寺


防府天満宮の社伝によると、西暦901年(昌泰4年 平安時代)菅原道真公が「無実の罪」によりに左遷され、太宰府に赴任する途中、勝間浦に立ち寄りました。西暦903年(延喜3年 平安時代)太宰府の地で薨去されました。

それからおよそ100年を経た西暦1004年(寛弘元年 平安時代)、時の一条天皇より勅使が菅原道真公最後の寄港地、防府天満宮に使わされ、勅使降祭(お御霊を慰める祭典)が斎行され、初めて天皇から「無実の罪」が奏上されました。

防府天満宮 御神幸祭はこの勅使降祭を起源とし、道真公に「無実の知らせ」を伝えるお祭りとして連綿と受け継がれており、崇敬の源となる最も重要な神事です。

亡くなられた翌年に道真公の慰霊をするために松ヶ崎に社が建立されました。これが防府天満宮のはじまりといわれています。

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防府天満宮


平安時代後期に後白河法皇は焼失した東大寺再建を俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人に命じました。苦労して東大寺再建を成就した重源上人は神の助けに感謝し、玉祖神社(たまのおやじんじゃ)と防府天満宮を造り替え、東大寺別院として阿弥陀寺を創建しました。阿弥陀寺には国宝や重要文化財とともに重源上人の遺品も多く所蔵しています。

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東大寺別院阿弥陀寺


関ヶ原の合戦の後、領地を8か国から周防・長門の2か国に減らされた毛利氏は、新たに萩に城を造りました。その後、参勤交代のためにほうふと萩(はぎ)を結ぶ萩往還を整備し、毛利水軍の本拠地である御舟倉(おふなぐら)も三田尻に移し、ほうふは萩藩の重要な対外拠点となりました。
幕末には勤皇の志士たちがこの往還道を通って富海から飛船に乗って上京したり、倒幕のため向島の小田(こだ)港沖から出帆したりしました。

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三田尻御舟倉跡


現在も市内には、歴史を刻む地名が多く残されており、伝統行事や文化財等も大切に守られています。